約3万年前の先土器時代にこの地域に人が住み始めたのではないかと言われています。
区内には縄文人の残した多数の貝塚があり、平成8年に発見された中里貝塚(上中里二)などこの地域はハマグリやカキの水産加工の一大拠点だったと言われています。
弥生時代には稲作の発達し、北区の人々の暮らしがムラの出現で大きく変わります、飛鳥山遺跡からは東日本で最大級の環濠集落(まわりに溝を掘り巡らせたムラ)が発見されました。
古墳時代に作られたと言われる豊島馬場遺跡、からは、日本最古のガラス小玉鋳型が出土しています。
中央政府の区画整理により、北区域は「武蔵国豊島郡」に属しており、今の北、板橋、荒川、台東、北、豊島、練馬の各区にあたります。
その後、社会の混乱を背景に「武士」が誕生し、北区の地を支配していたのが豪族・豊島氏です。
本拠地は上中里の平塚神社周辺か、豊島の清光寺周辺だといわれ、室町時代には、豊島郡のほぼ西半分に勢力を及ぼすに至ります。
しかしその豊島氏も、文明10年(1478年)に太田道灌との戦いに敗れ、ついに滅亡してしまいます。
江戸時代、この地域一帯は農村地帯でした。
飛鳥山や王子が江戸近郊の行楽地として発展し、八代将軍徳川吉宗は享保の改革のひとつとして、飛鳥山を庶民の行楽の地として開放します。
この時代の庶民は、春には飛鳥山の花見、夏は滝浴み、秋は滝野川の紅葉狩りと、こぞって北区の地を訪れるようになります。
その風景は多くの絵師によって錦絵となり、今でも当時のにぎわいを知ることができます。
慶長9 年から街道整備が始まり、東海道、中山道などの五街道に続き、岩槻街道なども整備されます。
岩槻街道は将軍一行が日光東照宮に参詣するときに通るので「御成道」と呼ばれるようになり、岩淵宿は、御成道の重要な宿場にまで発展します。
明治時代に、鉄道が開通するまで、風光明媚なこの土地は旅人の心を和ませ続けたと言われています。
明治の初め頃、北区域には、14の寺子屋があり、明治7年には荒川学校の開校をきっかけに、公立学校の設置が進みます。
一代消費地となった区内の農業も、首都へ野菜の供給地として活気づき、特に滝野川では「滝野川にんじん」「滝野川ごぼう」をはじめ、茶、大根などが主要な産品となります。
明治16年、上野ー熊谷間に鉄道が開通し、北区にも王子駅ができました。
明治44年には王子電気軌道株式会社の飛鳥山上ー大塚間が開通。
この王子電車は、現在も東京でただ一つ残り続ける路面電車、「都電荒川線」の前線です。
交通機関の発達と、石神井川の豊かな水によって北区域で工業が発達します。
人口も増加し、明治41年9月に、王子村は王子町となりました。
また、赤羽台に工兵隊が移転し、赤羽は次第ににぎやかになり、商店らしいものも登場しました。
大正2年に滝野川村も滝野川町となり、滝野川は住宅地へと発展し、低地部の王子や豊島には工場が進出していきます。
大正12年の関東大震災以後、人口増加の道をたどり、都市化のきっかけとなりました。
そして昭和7年に東京市は35区となります。
滝野川町は滝野川区に、王子町と岩淵町が合併して王子区となりました。
昭和22年、東京都は35区から23区に編成、滝野川区と王子区が一つになり現在の「北区」が誕生しました。
戦後のバラック校舎の建設や応急簡易住宅や都営住宅が次々と建てられて、復興が始まりました。
その後昭和30年代に、鉄道や道路、橋、公共施設、交通機関が整備で近代的な街として生まれ変わります。
昭和40年代には高度成長期の中、45万人を超すピークを迎えました。